前回はジャカルタの織物博物館についてご紹介しましたが、今回はジャカルタでもう1つ歴史を学びながらショッピングも楽しめる「ジャラン・スラバヤ通り」をご紹介します。骨董通りとも呼ばれるこの場所にはどのようなグッズが販売されているのでしょか。
インドネシアの首都ジャカルタは発展途上国とは思えない程発達した都市が広がっています。東京都内の主要区にも見劣りしないほどの街並みとなっている場所もあり、これまでの「東南アジア=混沌」といったようなイメージは一度訪れればいい意味で変わりそうな場所です。
今回はそんなジャカルタの中でも中古の珍しいグッズを多数取り揃えている「ジャラン・スラバヤ通り」をご紹介します。
まずジャラン・スラバヤの場所ですが、ジャカルタの中心部にあります。上の地図が広域、下が細かい地図になりますので現地を訪れたい方は参考にしてみてください。タクシーの運転手さんの中ではよく知られている場所ですので、大抵は間違いなく現地へ向かってくれるとは思います。ただし英語があまり通じない国ですので、行き先がわからない場合には上の地図をドライバーさんに見せて説明を試みるなど工夫が必要になることを知っておくと良いかと思います。
英語の話題になりましたのでジャラン・スラバヤ通りだけではなく、ジャカルタ観光に関係する部分もありますのでもう少し言語について。
ジャカルタはインドネシアの首都でありながら英語がほぼ通じないといっても過言ではありません。一般的に各国の首都では教育レベルの高い人々が集まる傾向にあるため、首都の言語力がその国の最も高い水準に近いと推測することができます。従ってジャカルタでほとんど英語が通じないとなると、インドネシアは観光地など毎日外国人と接する人々以外は英語を使う機会があまりない国である可能性が予測できます。もちろん、現地で働いている日本人の友人の話ではオフィス内の言語で英語を使っている会社も存在しているという話で、これは筆者も事実であることを認識しています。ただし毎日の生活の中に英語が溶け込んでいない国であるということもまた事実です。
少し話題が逸れましたがジャラン・スラバヤ通りの話に戻りましょう。この通りは500メートル程でそこまで長いという印象は受けませんが、片側車線が川、逆側には店舗がびっしり並んでいます。1店舗当たりの間口が約2メート程ですので、500メートルの間に200店舗前後が並んでいると推測できます。
骨董通りという名前は、基本的に商品が全て中古品であること、また販売されている物はインドネシアの骨董品だけではなく、各国から流れ着いた珍しい一品や、長きに渡ったオランダ統治時代に残された陶器などが混在しています。海外のこういった中古品販売のエリアではたいていの場合値段交渉が行われますが、海外に住んでいる人として感じることとして過度な割引交渉はお互いにとっていいことではありません。もちろん相手が法外な値段で話を進めようとしてくれば、適正な価格に交渉することは必要です。ただし、中古品を取り扱っているインドネシア人の方の立場もあります。あまりにも安い値段で交渉を行って、成立しないと心ない態度で去っていく日本人を筆者は世界の各国で見てきました。その国の人たちと楽しく交流して良い思い出を作り、彼らの商売もしっかり潤うようなラインを知って交渉を行ってみてください。
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こちらの店舗、一見他の店と変わらないのですがよく見てみるとグッズが混在せず理由のある並べ方になっています。店頭に出ているのはインドネシアの伝統舞踊などで使うインパクトのある仮面などの商品である一方、右下の棚と一番奥には白を基調としたオランダ時代の陶器が並んでいます。インドネシアは名前こそよく知られているものの、多数の島からなるエリアが1つの国家として形成されてからまだ100年も経っていないという意外と新しい独立国家の一つです。
非常に長い間続いていたオランダの統治についてはこのようにまとまった内容がありましたので引用でご紹介します。
16世紀になると、大航海時代のヨーロッパ勢力が香辛料貿易の利益を求めてこの地域にあらわれるようになった。
1602年、オランダ東インド会社がジャワ島に進出し、オランダによる植民地化の時代が始まる。オランダ人たちは前世紀にこの地域に到達していたポルトガルや、同じ時期にやってきた競争相手のイギリスを追いやってこの地域における主導権を握り、長い時間をかけて次第に支配地を現在のインドネシアの領域全体へと拡大していった。
その拠点として1619年に制圧されたのがバンテン王国の首都ジャカルタであり、オランダ人はこの町をバタヴィアと改名した。
1660年よりオランダ東インド会社は、スラウェシ島のマカッサル西海岸でゴワ王国との戦争に突入し、1669年にスラウェシ島支配に関するボンガヤ条約が締結された。1665年から1667年にかけての第二次英蘭戦争で、バンダ諸島のラン島(香辛料貿易)とニューネーデルラント植民地のニューアムステルダム(毛皮貿易)の自治権とを交換して獲得し、香辛料貿易(ナツメグ、クローブ等)の独占を図った。イギリスは既に種子を持ち出しており、1815年頃からモーリシャスやグレナダなどでプランテーションを開始すると、香辛料はありふれた商品となってバンダ諸島の価値は相対的に下がっていくことになった。
18世紀には3次にわたるジャワ継承戦争(第1次ジャワ継承戦争、第2次ジャワ継承戦争、第3次ジャワ継承戦争)と華僑虐殺事件によってマタラム王国が4分割されてオランダ東インド会社の保護下に組み入れられると、ジャワ島全域がその支配下に置かれた。ジャワ戦争(1825年 - 1830年)。
19世紀に入るとナポレオン戦争によるオランダ本国の混乱もあって一時支配力が弱まるが、オランダ東インド会社が解散されてオランダ本国による植民地直接統治が始まり、オランダ人によるプランテーション経営が広まって経済的な搾取は強まっていった。
1815年5月5日、スンバワ島のタンボラ山が噴火。翌年、夏のない年と呼ばれる異常気象に見舞われた。
パドリ戦争(1821年 - 1837年)。 1824年に英蘭協約を締結したが、この条約がアチェ戦争(1873年-1913年)の導火線となり、オランダが勝利してスマトラ島の支配権も確立し、ポルトガル領ティモール(現東ティモール)を除き東インド諸島はすべてオランダ領とするのは20世紀に入ってからとなった。
東インド会社という名前は高校生のころ世界史で勉強した覚えのある方も少なく無いと思います。筆者が住んでいるフィリピンはスペイン統治の時代が長い国ですが、インドネシアはオランダ統治の時代が長く、独立は戦争中の短い日本統治の後、独立戦争が終わった1949年の年末でした。オランダの統治が長かったため、物品も多く残っています。ジャラン・スラバヤ通りではインドネシアの雰囲気からは想像できないヨーロッパ風の繊細な柄のディナーセットなどを突然見つけることになります。また日本統治の数年間の間も残されたものがあり、当時のコインや紙幣、雑誌のようなもの、食器が確認できました。ただ古いものが置かれているわけではなく、意外と珍しく貴重なものも眠っていそうです。こういった1つひとつの物や人との出会いから、海外の歴史に関心を持っていくと面白いかもしれませんね。
ジャラン・スラバヤ通りは常に多くの観光客が訪れる場所というわけではなく、筆者が訪れた平日の日中は人通りもまばらでゆっくりと見学することができました。インドネシアの方は他の国のこういった通りと比べると押し売りをあまりせず、本当に関心を持った人にだけ話をするような方々であることも好印象を受けました。インドネシアはフィリピンと比べると落ち着いた方が多い印象で、旅をするにも比較的安心感があります。ジャラン・スラバヤ通りも魅力的な場所なので是非訪れてみてください。
余談ですが日本で「スラバヤ」という言葉をどこかで聞いたことのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。実は松任谷由実さんの歌で「スラバヤ通りの妹へ」という曲があり、隠れた名曲として知られています。「水の中のASIAへ」というアルバムの中に収録されているこの曲を聞いてから現地を訪れるとまた違った印象を受けるかもしれませんね!

- アーティスト: 松任谷由実
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